温故知新

 「何か胸のあたりがざわざわして落ち着かないんだよな〜」とかみさんに訴えたのは11月の初めだった。その数日後、駐車場から車を出そうとして、ハンドルを左にきった時に“おんこちしん”と黙読でもするような感覚で、ひらがなが脳裏に浮かんだ。「何だ今のは?」初めての感覚だったのでびっくりした。しかも、ひらがなのイメージなので、最初は意味がわからなかった。事務所へ行き、インターネットで意味を確認した。『温故知新:歴史・思想・古典など昔のことをよく調べ研究し、そこから新しい知識や見解を得ること。孔子の論語の出典によるもの』

 疲れているのかなと思ったが、その後、探していた答えが見つかったように、胸のざわつきがおさまった。この不思議な感覚はいったいなんだろうと思い、その当時、自分はどんな事を考えて、どんな気持ちでいたのだろうかと、振返ってみた。

 たしか、昔の本を沢山読みたいと思っていたが、時間もないので、簡単に聞ける「聞いて楽しむ日本の名作」というCDを購入した。その中の、市原悦子の朗読を聞き、幼い頃から怖いイメージとして脳裏に焼き付いていた[洞窟の中をロープのような物にぶら下がっている人と、その下に群がる群衆の絵]が、芥川龍之介の「くもの糸」の絵本の一場面である事がわかり、長年の謎が解けてすっきりした気持ちになっていた事。(凝らないコラム:くもの糸参照

 また、司馬遼太郎の「峠」という小説を読み、幕末の長岡藩の家老、河井継之助が藩の命運をかけて奔走するが、時代の宿命の中で絶命していく様子。半藤一利の「山本五十六」の中で、こちらも長岡出身の山本五十六が、開戦に最後まで反対しながらも、真珠湾攻撃の指揮を執り、奇襲の汚名を受けて無念の中で絶命していく様子。
 これらについて、どうしようもなくやるせない気持ちを抱いていた事。

 それと、何年か前から身体を悪くした父親が、好きな畑仕事ができなくなり、もどかしさを感じているのを知りつつ、なんとかしなければと思いながら、自分にどこまで出来るのだろうかと不安な気持ちを抱いていた事。

 そんな時期に、よしもとばななの「アムリタ」という小説を読み始めた。霊的な内容であるが、日常性は失われず、素直に共感できる部分が多かった。生死ついての無垢な感覚が、自分の周りをうっすらと包ま込み、地に足がつかない感じがしていた。自分の感覚と、あまりにもしっくりし過ぎていたせいか、この本を読み始めた頃から、胸のあたりにざわつきを感じるようになった。そのため、上巻を読んだところでいったん読むのを止めていた。
 
 この他にも、いろいろな事が重なって、気持ちが整理されていなかったように思う。なぜ“おんこちしん”と脳裏に浮かんだのか、それが自分の中の無意識の領域なのかはよくわからないが、答えを求めてさまよっていた様に思う。それが「アムリタ」という小説に同期されて、胸のざわつきとともに身体に感じるようになり、答えを得ておさまった。あくまでも推測であるが、そんな感覚が自分を納得させる。

 では、なぜ自分は答えを求めていたのだろうか。それはやはり、3月11日の震災から来ているように思う。生まれて初めて経験した未曾有の災害。1万5千人を超える死者と3千人を超える行方不明者。脳裏に焼きついた津波の映像。繰り返し体感させられる余震。収束の目処が立たない人災。はたして、自分はこれからどう生きていけば良いのか?自問自答を繰り返していた。

 そこに“おんこちしん”という自分なりの答えが、身体にす〜っと入ってきた。そして、これからの人生の「道しるべ」として身体の中でなじんでいった。その事により、少し落ち着いた気持ちで、新しい年を迎える事ができた。

 さあ〜今年も、自分の歩幅で、目の前の道を、一歩一歩踏みしめながら、歩んでいこうと思っている。