百川

 先日、自宅の机の上を整理していたら、今年の7月3日の新聞がでてきた。何でこれだけ残しておいたのかなぁと思いながら広げてみると、【消えた料亭「百川(ももかわ)」を追う 江戸・日本橋で文人や学者に愛された謎の名店】という記事が目についた。そうだ!この記事を後で読もうと思って残しておいたのである。

旧日本橋 なぜかというと、古典落語に「百川」という噺がある。この料亭を舞台にした噺で、今や人間国宝になられた柳谷小三治さんの「百川」が好きで、繰り返し聴いている。百川にまつわる記事を読みながら、もうすこし噺のイメージを膨らませたいと思ったからである。

 百川:日本橋の浮世小路にある老舗の懐石料亭「百川」に奉公人としてやって来た田舎者の百兵衛。かなり田舎の訛りが酷く、主人も挨拶を聞き、内容を理解するのに苦しむような状況なところに、お客様からの呼び出しがかかる。主人は不安に思いつつ、百兵衛に用件を聞きにいかせる。 案の定、訛りが酷いために「あたくし、しじんけのかけぇにんでごぜぇまして(私、主人家の抱え人でございまして)…」という言葉を「私、四神剣(しじんけん)の掛け合い人でございまして…」という風に聞き間違われてしまう。
 実はこのお客達は魚河岸の連中で、以前祭りで四神剣(四方の神を描いた剣のついた4本の旗)を借用していたのだが、金に困り、それらを質に入れてしまっていたため、慌てふためき、なんとか言いくるめて百兵衛に帰ってもらおうとするが、そのやり取りや間合いがとても面白い。

 何とか奉公人であることがわかり、客の用件を聞きだすと、「常磐津の歌女文字(ときわづのかめもじ)を呼んでこいと言われるが、間違えて医者の鴨池玄林(かもじげんりん)の家に入ってしまう。また訛りのために間違った情報が伝わってしまい、料亭百川で斬られた四、五人の治療のための先生を呼びに来たものと勘違いされ、先生が百川に急いで到着したところで、サゲとなる。先程も聴いたがやっぱり面白い。

日本橋 新聞の記事によると、「百川」は江戸中期の明和・安永頃(1760〜70年代)に創業。現在の日本橋三越本店近くに店を構え、百川楼と称した。おおいに繁盛した料亭だが、明治の初めに忽然と消え去った。まとまった史料は残っておらず、謎に包まれた名店である。商人や近在の富農のほか、庶民も慶弔の席などに利用した。だが特筆すべきは文人たちのサロンの役割。

 書画や俳諧、茶、花などさまざまな会に使われた。文化文政期がやはり全盛だったようで、文人や学者などの来店が多い。例えば、備後福山藩の儒学者で当代随一の漢詩人だった管茶山が藩命で江戸に滞在した際の日記には百川が頻回に出てくる。滞在は文化11年(1814年)8月から翌2月まで。書画や漢詩の会を中心に足繁く通っている。集まったのは、白河藩主を経て老中になる松平定信、天文暦学者伊能忠敬、儒学者頼山陽をはじめ錚々たる顔ぶれだ。狂歌師・文人の大田南畝の日記にもしばしば登場する。漢詩人で勤王家の染川星厳らも常連。階層を超えたサークルが百川で形成されていった。

 百川のハイライトは幕末の安政元年(1854年)、店主百川茂左衛門が、日本に開国を求めて米国から「黒船」で再来航したペリー一行の饗応(きょうおう)(おもてなし)を命じられたことである。供したのは最高級の懐石料理「三百人前 控え分二百人前」三の善まである贅を尽くしたごちそうであった。
 その味を再現しようと、日本橋の料理店の有志が料理研究家らの協力でペリー一行に供した料理の一部を再現する企画があるらしい。

 百川の繁栄のバックグラウンドを知ることができて、百兵衛の訛りとのギャップが、よりいっそうたまらない魅力である。



【2014年7月3日 日経新聞 40 文化 筑後則氏 法政大学兼任講師消えた料亭「百川」を追う 江戸・日本橋で文人や学者に愛された謎の名店】記事参照。