アムリタ

 昨年の秋、気持ちが少し沈みがちだなぁと感じながら、こんな時は何かなぐさめてくれる本がないものかと、本屋で立ち読みをしていた。ふと気がつくと、心理学者の河合隼雄さんの「こころの扉を開く」という題名に惹かれてページをめくっていた。この本は河合さんが読んでほしい本を章ごとに何冊か選択し、その本の内容に合わせて、こころの深いところについて考察していく形式になっていた。おもしろそうなので、さっそく購入して、選択してある本を探しに図書館や古本屋を回った。そして、最初に読んだのがよしもとばななの「アムリタ」という本であった。

 よしもとばなな、1964年生まれの作家。「キッチン」という小説が有名な事は知っていたが、本を読んだ事はなかった。台所にまつわる食事の話だと思っていたので、あまり興味がわかなかった。父親は、先月三月十六日に亡くなった吉本隆明氏。日本を代表する思想家。晩年は自分の老いに向き合った書物を執筆していた。先日、立川の書店で、追悼コーナーが設けられていた。

アムリタ上下巻アムリタ(英語:amrita)辞書によると、「インド神話に登場する神秘的な飲料の名で、飲む者に不死を与えるとされる。乳海攪拌(にゅうかいかくはん)(ヒンドゥー教における天地創造神話)によって醸造された。」と記されている。

 本を読み始めると、つむぎだされる文章が、思考からではなく、無垢な感覚から、そのままの形で表現されているように感じた。そのためか、自分の感覚の中に、あまりにもしっくり入ってくるので、かえって戸惑いを感じてしまった。その無垢な感覚が、自分の周りをうっすらと包み込み、地に足がつかない感じがしていた。読み始めた頃から、胸のあたりになんかざわつきを感じるようになっていたので、上巻を読んだところでいったん読むのを止めていた。

 初めての感覚だった。内容が印象に残るのと違って、全体を通して醸し出される雰囲気が自分の日常の感覚にす〜っと入ってくる感じがする。自分と同世代ということもあると思うが、何か不思議な感じである。その後、気持ちが落ち着いてきたところで、下巻を読んだ。雰囲気にも慣れてきたので、他の本も読んでみた。「はごろも」「キッチン」「アルゼンチンババア」「哀しい予感」

 いずれもスピリチュアルな内容であるが、日常性は失われず、素直に共感できる部分が多かった。読んでいるうちに、だんだん心地よさに変わっていった。

 そして、もう少し早い時期に読めばよかったのにという思いが一瞬脳裏をよぎった。しかし、この年齢になって、初めての感覚を味わうことができたことのほうが大切なんだと今は思っている。

 心地よい読み物に出会う事ができたおかげで、図書館や古本屋めぐりが楽しくなったきた今年の春の到来である。